御柱に乗った 岡本太郎
小口惣三郎
岡木太郎のよき理解者といわれた「芸術新湖」前編集長の山崎省三氏は「諏訪に来て岡本太郎の芸術は変った」と確信をもって語った。
縄文文化のメッカである尖石・井戸尻.阿久遺跡、巨木信仰を今に伝へる諏訪の御柱祭、石の造形に厚い信仰を刻みこんだ万治の石佛、そして女神の神湯として毎年元旦に松立て神事を行う諏訪の温泉。等々、岡本太郎にとって諏訪は渇仰の地でもあった。それを
裏づけるかのように、養女の岡本敏子さんは「諏訪は、岡木にとって心のふるさとよ」という言葉をのこしている。
昭和四十九年御柱を楽しみにしていた岡本太郎は国鉄ストのために諏訪行きを断念した。しかし諦めきれず、祭りの興奮のこる六月初め、建てたばかりの御柱を見に訪れた。その時、春宮のお社の裏へ回って偶然に発見されたのが、すっかり有名になった万治の石佛であった。
「世界中歩いているが、こんなのは初めてだよ。凄いネ、凄い!」
のちに岡本太郎は朝日新聞に「諏訪の巨石」と題して文章を載せたが、御柱を見に来て石の神聖さを発見できたことは思わぬうれしさだ、と結んでいた。
温泉が好きで、万治の石佛に出会ったこともあって岡本太郎はいよいよ諏訪と緊密になっていった。そうして40回近い来諏となったのだが、その間、昭和五十五年、六十一年の御柱祭りには直接参加している。
昭和五十五年四月十二日夜明け、「今朝は清めの風呂だ」といって神妙に湯につかると、用意してきた運動靴を履き軽い身支度を済ませ、六キロ先の御柱街道の萩倉へと急いだ。
木落し坂の上はすでに熱気が漂っていた。「オイ、縄文人が満ち満ちてるゾ」といいながら、わくわくする気持ちを抑えがたい様子で、人混みをかきわけて遊んでいった、一突然着ていたジャン.ーバーを脱ぎ捨でると、わたしの法被を剥ぎ取って身につけ、オンベを振りながら曳行の列に入っていった。周りの人たちから持ち上げられるように、曳行中の御柱の上に乗せてもらうと縄文人にかえったように大喜びでオンベを振った。「御柱はボクのものだ」といわんばかりのいきいきした姿だった。
沿道にある民家の庭を借りて地区ごとで昼の休憩である。祝い酒が振る舞われ、賑やかな宴となり、岡本太郎も樽から酌まれたマス酒を代わるがわる大勢の人から受け、木遺りのサービスにもご満悦だった。木落しは、もうすぐだ。このあとの様子は、岡本敏子さ
んの思い出話が多くを語っている。
「気がつくと岡本は、落ちる寸前の御柱に乗っているんですよ。危ないから降りて下さい、といっても聞かないんです。皆さんが『死んじゃうから下りて』と引きずり下そうとしても『死んだつていいじゃないか、皆がのってるのにどうしてボクだけダメなんだ...』と言って怒るんです。怒る岡本を皆の力で下ろしたんですけれど、また『なぜボクだけが......』といって!」
ここまで語って敏子さんは涙を流し絶句した。
平成八年一月七日岡本太郎は八十四歳の生涯を閉じたが、御柱にかける情熱はすさまじかった。「縄文がいいんじゃない。縄文文化が今に脈々と伝わり生きている諏訪はいい」といい遺し、「地響きたてて曳かれる御柱は生きている巨竜のようだ。地響きはその心臓の鼓動だ。メド穴ば眼玉だ!」と語った岡本太郎。
死んで何が悪い。
それが祭りだ。
岡本太郎
平成十年の春、御柱を前にして、岡本太郎の養女敏子さんから、御柱、秋宮の一の曳行責任者あてに一通の手紙が送られてきた。
「岡本太郎が生前、あれだけ情熱をそそぎ、乗りたがっていた夢をかなえてほしい。木落しに乗る方の胸に遺影を抱いて頂けないでしょうか」というものだった。岡本先生が愛した御柱だ。いい話だからかなえてあげたい、曳行委員長は快く承諾した。
御柱祭の最後を秋一の木落しが、豪快に急坂を滑り下りた。選りすぐられた氏子の胸に納めた遺影は、最後まで氏子とともに坂を下りたのだ。
岡本太郎の夢、実現-。
岡本太郎は、御柱に乗って、七年ごとにまた心のふるさと諏訪に降りてくるにちがいない。